反逆のガザ、パレスチナ民族主義の坩堝【戦略的領土と激動の歴史】

├ ★ルモンド・ディプロマティック
この記事は約5分で読めます。

今年、パリの夏は例年通り短く過ぎ去り
扇風機を出したのは一週間程度だったでしょうか。。。
涼しい8月を過ごしています。

フランスに住み始めもうすぐ12年目に突入。
このブログを始めてからは、なんと10年半。
これからも不定期ながら、途絶えずにブログを続けていけたら幸いです。

本記事では、フランス語版ルモンドディプロマティックから反逆のガザ、パレスチナ民族主義の坩堝【戦略的領土と激動の歴史】をご紹介します。

スポンサーリンク

反逆のガザ、パレスチナ民族主義の坩堝【戦略的領土と激動の歴史】

2014年7月8日を引き金に、「ガザに対するイスラエルの空爆」に次いで、同年7月24日、地上軍の攻撃により700人以上の死者が出た。

しかし、包囲により降伏する可能性はほぼない。

この地区はファタハの幹部を生んだ歴史から、1948年以来パレスチナ消滅に屈しない住民たちが断固として抵抗してきたことがうかがえる。

2014年8月 アラン・グレッシュ

※ファタハ(Fatah)とは:
故アラファト自治政府議長らがパレスチナの解放を目指し、1958年ごろ創設。全パレスチナ人を代表するパレスチナ解放機構(PLO)の主流派組織で、イスラエルとの交渉を通じた和平を目指す。パレスチナを二分するもう一方の勢力であるイスラム原理主義組織のハマースに対して「穏健派」とよばれる。2007年にハマースがガザ地区を武力制圧し、パレスチナ自治区はファタハが統治するヨルダン川西岸地区とハマースが実効支配するガザ地区に分断されたが、2011年、両組織は和解文書に署名した。(出典:コトバンク)


『危険なデリラに髪を刈られ、力を奪われたヘブライ人サムソンは、「パレスチナ」の名の由来となるペリシテ人の手に落ちて両眼をえぐり取られた。
ある日、彼らはサムソンをからかおうとやってきた。
サムソンは、神殿を支える中央の二本の柱を探りあて、右腕で一方に、左腕でもう片方に寄りかかった。
「わたしはペリシテ人と一緒にに絶命する。」
そう言うと、サムソンは渾身の力を込めて2本の柱を押した。
そして神殿は、君主たちやそこにいたすべての人々の上に崩れ落ちた。
彼の死をもって殺された者は、彼が生前に殺した者たちの数を超えていた。』

聖書で語られているこの有名なエピソードは、ヘブライ人と敵対するペリシテの首都「ガザ」で繰り広げられる。

古代以来「ガザ」は、ヨーロッパとアジア、中東とアフリカ間における貿易ルートの交差点だった。

したがって、都市と地域は古代エジプトからローマを経由して「ビザンチン帝国」まで時の勢力が対立する中心地だった。

これは西暦634年、2年前に死亡した預言者モハメッドのイスラム教、結託した未知の信者の「ビザンチン帝国」における事実上の初勝利である。

ガザ」は、フランク王国、モンゴルの侵略、ナポレオンの遠征等、様々な期間のインターバルを経て、第一次世界大戦までムスリム(イスラム教徒)の支配下に置かれつづけた。

「簡単に得たものは、すぐに失われる」ジャン=ピエール・フィリゥは、この分野に最も精通した著作の中でそう述べている。

1917年11月9日、パレスチナのゲートはエルサレムへのアクセスを開放した。

そしてオスマン帝国は、12月11日に入城した英国の軍司令官エドマンド・アレンビーの手でこのゲートを征服した。

※1917年バルフォア宣言。英国がユダヤ人にパレスチナへの独立国家建設を約束。

このような出来事は英国・ロンドンにとって、ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国とともにスルタンを倒すためだけでなく、要地をコントロールし、重要なコミュニケーションの経路としてスエズ運河を確実に保護することでもあった。

(原 文:http://www.monde-diplomatique.fr/2014/08/GRESH/50712)

激動のヨーロッパと終わりなき空爆

話はかわりますが本日8月6日は、広島に原爆が投下された日。
日本人である私たちが忘れてはいけない、忘れられない日。

フランスで暮らす私はちょうど2年前、2014年の夏の出来事
「ガザ地区への激しい空爆
」を思い出します。

もちろん空爆が行われているのはガザだけではなく
シリアは今も戦火(内戦)にあります。

シリアでは5日、「反政府軍支配地域」を空爆。
児童7名を含む少なくとも11名の住民が死亡したと伝えています。

この2年間でフランスやヨーロッパの情勢は激動の変化を迎え、
その変化は今も続いています。


今年は、フランス在住の外国人や低所得者にとって不利となる法律も施行されました。

変化というよりはむしろ、今まであったことが顕著化して国や大多数の市民、
観光客までを巻き込んで、今後もそれはさらに強調されていくでしょう。


そうは言ってもフランスは観光大国です。

私の自宅付近、職場のまわりにも自撮り棒を片手に浮かれた欧米人旅行者たちの姿が、再び戻ってきました。

これはシャーリー・エブド事件以降、去年の夏には見られなかった光景です。

最後に

パリを訪れた日本人観光客が「今のパリは戦前のような厳戒態勢でものものしい雰囲気」なんてsnsに投稿してのを時々みかけますが、実際には主要な駅で荷物検査があるくらいで全然そんなことありません。

どうかパリを訪れるみなさまが、不必要な不安や恐怖にあおられませんように。

ただ、2015年の1月以降、観光収入の減少によるフランス経済への打撃は明白で、観光客も住民も身の回りには十分注意する必要があります。

お財布や携帯電話、タブレットやノートパソコンの入ったバックは、常に周囲から狙われていると思って気をつけてくださいね。

コメント

タイトルとURLをコピーしました